新選組とは何だったのか?子孫が語る誠と悲哀

本立寺 住職 中島大成
新選組とは何だったのか?子孫が語る誠と悲哀
地域共創(大崎×五反田LINK独自記事)

動乱の幕末で京都の治安維持を任された新選組。鳥羽伏見の戦いから参戦した新選組メンバーの中島登は、新選組関連の貴重な資料となる『戦友姿絵』と『中島登覚え書』を残しました。中島登4代目の子孫である中島大成さんは現在、日蓮宗妙建山 本立寺(品川区東五反田)で住職をしています。

土方歳三をはじめとするメンバーへの想いが垣間見える『戦友姿絵』や、末裔としての想いをお伺いするとともに、お寺を災害時の救援拠点とするに至った経緯など、地域への想いも語っていただきました。

戦友を弔うため、描かずにはいられなかった『戦友姿絵』

——中島登が新選組に入隊したきっかけを教えてください。

中島住職(以下、中島):登は現在の東京都八王子市出身です。八王子には江戸幕府によって千人同心が配置されていて、甲州から江戸へ敵が侵入してこないよう八王子で阻止するという役目を担っていました。任務のない時は農業をする半農半武で、登はそういう家に生まれたんですね。

剣術に関しては、新選組隊士の主な流派である天然理心流を多摩の道場で学んでいました。段位は中極意目録ですし、実戦で生き抜いていますので、相当な腕があったのではないかと思います。

当時はまさに幕末で、国の先行きは誰にとっても大きな関心事だったのではないでしょうか。そういった状況が入隊のきっかけのひとつだったと思います。それと、新選組局長の近藤勇が遠縁にいましたので、ご縁がつながって入隊したとも考えられます。入隊は27歳の時ですね。

新選組隊士 中島登4代目/日蓮宗妙建山本立寺 中島大成住職

新選組のイメージは人によって違いますが、京都で巻き起こした大小さまざまな事件から人斬り集団だと言う人も多くいます。でもそうではなくて、幕府が投入したテロ対策の特殊部隊だと思っていただけるとわかりやすいですね。

新選組は幕臣の中の一番下の組織で、スタンスは尊王攘夷ではなく尊王佐幕です。身分に関係なく集められましたので、近藤勇や副長の土方歳三はじめ、武士に憧れた農民出身者もたくさんいました。

当時の京都は長州藩の無差別テロによる挑発が続き、治安が悪化していたんですね。そこで幕府はまず、会津藩主の松平容保を入京させました。松平容保は約1千人の兵を引き連れて京都守護職となりましたが、「ならぬことはならぬ」という会津藩の武士の掟から、テロに対して柔軟な対応ができなかったんです。そこで、テロ対策のために会津藩の指揮下に置かれたのが新選組でした。

——中島登はどんな人だったのでしょうか。

中島: 京都で新選組が名を上げた池田屋事件の時、登はまだ入隊していません。登の名前が名簿に出てくるのは、鳥羽伏見の戦いからです。この戦は優勢だと思われていましたが、官軍の旗である錦の御旗が薩長に上がって旧幕府軍は総崩れしてしまうんですね。新政府軍に負けた徳川慶喜は、幕臣たちを置き去りにして軍艦・開陽丸に乗り込み江戸へ戻ってしまいました。

結局みんな敗走して品川宿に戻ってくるのですが、新選組はその後、甲陽鎮撫隊として甲府城接収のため現在の山梨県へ行き、そこでも負けました。宇都宮城の戦いでは1度勝利しましたが、それ以外はひたすら負け戦だったんです。

中島登

登は私の曽祖父で会ったことはありません。どんな人かと言われて思うのは、ひたすら負け続けてもなお、なぜ最後の戦場である蝦夷地・箱館まで行ったのか。信念があったからだと思いますが、なぜそこまでの信念を持つようになったのでしょうか。

登は『戦友姿絵』と『中島登覚え書』を残しました。『戦友姿絵』は、新選組隊士26人と旧幕府軍兵士5人の勇姿を描いた絵に言葉が添えられているのですが、土方歳三のことを大変優しい人柄だと書いているんですね。「鬼の副長」とよく言われますが、実はとても温かい人だった気がします。登は土方さんの人間的な魅力に惹かれ、「この人にずっと付いていこう」という想いを持っていたのではないでしょうか。とても慕っていたと思います。

登が描いた土方歳三。「年ノ長スルニ従ヒ温和ニシテ 人ノ帰スルコト赤子ノ母ヲ慕フガ如シ」とある

——登はなぜ『戦友姿絵』を描いたのでしょうか。

中島:箱館で土方さんは五稜郭、登は弁天台場にいました。湾を挟んでお互い見える位置にあるので、土方さんが五稜郭から出てきて一本木関門で撃たれる様子を登は弁天台場から見ていたかもしれません。

『戦友姿絵』は箱館戦争の後、恭順生活中に描いたものです。有り余る時間の中で、登は共に戦った仲間を弔うために絵を残しました。亡くなった戦友たちの姿を自分が書き残し、それが後世に伝われば、「あの戦いは一体何だったのか」と振り返ってもらえる。そんな想いで描いたのだと思います。

中には、会津の戦いで亡くなったと思って描いたけれど、実際は生き残っていた人もいます。山口二郎(斉藤一)など数名ですね。当時は情報がすぐに伝わりませんから。

——自画像もありますね。すべての絵を細かく描いていて、気持ちを想像すると切ないと同時に迫るものを感じました。

中島:私は最初に絵を見た時、どの人も歌舞伎絵のように描かれていて同じ顔だと思ったんです。顔の造作にこだわって描いたわけではないのでしょう。自画像も全然似ていません。先ほど、登がなぜ『戦友姿絵』を描いたのか、どんな想いで描いたのかを話しましたが、自画像の添え書きにそのことが書かれているんです。自分の絵はおまけのようなもので、文章が大事だったのではないかと想像します。

自画像

自分は何のために命がけで戦ってきたのか、なぜ共に過ごした仲間が死んでしまったのかを、登は本気で考えたのではないでしょうか。自分もいつ死ぬかわからなかったのに生きているという不思議な気持ちもありますよね。だから絵を描くことで、自分の葛藤する心を落ち着かせたかったのかもしれません。言葉が添えられていることで、そういう意思が伝わりますよね。

『戦友姿絵』の中には、文章だけが書いてある跋文(ばつぶん)があります。その時の心情を吐露した内容なのですが、亡き戦友たちの魂の安らぎを願うと同時に、正しいと信じて必死に戦ったけれど一体どちらが道理に適っていたのかと苦悩しているんですね。亡くなった人、生き残った人、幕臣や隊士に関わらず誰もが同じようなことを考えていたと思います。自分のためではなく国の未来のために戦ったんです。それだけ生きるのに真剣だったということではないでしょうか。

跋文

そこから私が思うのは、今の若い方たちに、自分以外の人や国のことを考えて行動する広い視野と生き方を持ってほしいということです。コロナや災害で大変な状況になっても、「私は抜けます」とは言えません。そんな時に何をしなければならないか。向き合わなければいけないんです。自分の命がかかった時に初めて、本当に大事なものは何かがはっきりと見えるのではないでしょうか。

新選組隊士の多くは20代でした。自分の命をかけて、正しいと信じた道を貫き通しました。今の若い方たちにも、国の未来を考えて意見を言ったり行動したりしてほしいと思っています。

近藤勇

——中島登の刀について教えてください。

中島:実は、登が使ってきた刀はすでにありません。登は恭順生活が解けた後、静岡藩預かりとなって土地の開拓を言い渡されました。武術が好きな登にとっては面白くなかったのか一旦八王子に帰ろうとするのですが、幕臣だった大島清慎と浜松で偶然再会するんです。登は会津戦争の時、銃に撃たれて瀕死の状態だった大島清慎を助けました。

当時は新たな時代になったものの情勢が不安定で、治安が悪かったんですね。代書屋をして羽振りの良かった大島さんに用心棒を頼まれた登は、浜松に定住することにしました。大島さんの護衛からはじまり、「金玉廉」という洋蘭の栽培で財を成した登は、最終的に「中島銃砲火薬店」を開きます。

ところが、町に大火があった時、登の持っていたものが焼けてしまったんです。もしかしたら火事場泥棒に持っていかれたのかもしれません。ちなみに笑い話がひとつありまして、登は大事にしていた金玉廉を日に当てるため窓辺に出していたのですが、お客さんが乗ってきた馬を外で待たせている間に、馬が金玉廉を全部食べてしまいました。それがきっかけで登は商売をやめたそうです。

有名な絵師が描いた金玉廉の元株

——登の子孫であることが、ご自身の考え方や生き方に影響していますか。

中島:そもそも私が住職をしているのは曽祖父のせいなんです。登の姉・うらが富川日命という僧侶に嫁いだご縁もあり、登の息子である私の祖父・義一は、罪障消滅のために出家しました。「あなたのお父さんは散々人を斬ったのだから、出家して供養しなさい」と日命に勧められて弟子になったんです。

影響については、やっぱり曲がったことが嫌いですよね。先々代の祖父や先代の父もそうでした。登にも自分なりの信念があったと思います。会津藩ではないですが、「ならぬことはならぬ」という精神が何となく伝わっているような気がします。

悲惨な光景を目撃した経験から、お寺を地域の災害時救援拠点に。

——最後に、地域に対する住職の想いをお聞かせください。

中島:このお寺は、災害時の一時集合場所になっています。境内の建物には、4トンの水を常にストックできるタンクがあって、水は月に1度半分ずつ自動で入れ替わります。防災倉庫にはカセットコンロ、ガスボンベ、炊き出し用の大鍋など一通りの道具を揃えていますし、外には昔から防火水槽があります。お寺が近隣の方への救援拠点となるよう心掛けています。

私は阪神淡路大震災以来、さまざまな災害の現場へ行って炊き出しなどのボランティアをしてきました。神戸へ行ったのは地震が起きて数日後でしたが、倒れた家の中にはまだ人がいて、救急車が走り回ったり、ヘリコプターが上空を飛んでいたりと戦場のような状態でした。

自衛隊が貸してくれたテントの中で、亡くなった方々の供養もしました。火葬場は市営でしたが、「耐えられないから供養してほしい」と職員が私どもに頼むほど悲惨な状況だったんです。

火葬場へ続く道は渋滞したままで車中には亡くなった人が積まれていました。火葬場の廊下には遺体が並んでいて私どもは中へ入ることもできません。目を覆うような有様に、各宗派の僧侶はみんな泣きながらお経をあげました。

災害ごとに行政の対応は成長していきましたが、当時の行政は機能不全を起こしました。ですから、学校に避難している人がいる、公園でテントを出している人がいるなど、全部自分たちで現場を調べて炊き出しをしました。

そういった経験から、災害に関することなら地域の方と連携できると思っています。お寺は、地域の役に立たないと意味がないですよね。災害があった時に少しでもお役に立てるお寺でありたいと考えています。

<プロフィール>

■中島大成

妙建山 本立寺第二十二代住職 少年の頃の夢はジャンボジェットのパイロット。自ら操縦して世界を飛ぶことは叶わなかったが、インド、スリランカ、タイ、台湾など世界各地での法要で導師、式衆を経験。各国の僧侶と宗派を超えた交流を持つ。阪神淡路大震災がきっかけとなり、新潟中越沖地震、東日本大震災等、全国各地で救援活動を展開、僧侶救援活動の草分けとなった。芝学園高校、立正大学仏教学部卒。また新選組隊士・中島登の子孫であり、法務の傍ら各地で講演会を行っている。

(若松 渚)

タイトルとURLをコピーしました